マーク・ヴァサーロ , 鷹野隆大 , 菅野恒平 |「日本の花/落花」| 2018年10月31日- 11月29日

菅野恒平

儚くも優雅な桜は、日本において正に春の象徴と言えよう。開花期間は僅かヶ月だが、日本人は開花予報を敏感に見聞きし、桜を鑑賞する「お花見」を設ける。この事柄から、日本人にとって桜の開花は最早、生活の一部であり、文化としての重要性を持っていることが十分推測されるだろう。もし、この開花周期を通した生の儚い特性の寓意が文化を超越したら、反復される主題として捕らえる媒体をも突き抜ける。東洋における花とは、多くの写真家にとって西洋と同じく、インスピレーションの対象だ。日本の写真シーンでは、荒木経惟や篠山紀信などの偉大な写真家が花弁の繊細さと被写体の肉体を組み合わせた。蜷川実花、クロダミサト、森栄喜、アキバシオリといった若い世代は、それだけに留まらず、更なる飛躍を見せている。海外では、ロバート・メイプルソープが対象物を画面いっぱいに撮影し花の構成を通して、彼にとってのエロティシズムの重要性を参照しながら、花の形状や、脆弱性を捉えている。花の主題は哲学よりグラフィカルな言語で構成されている。メメント・モリと引喩を合わせ、注意深い観察をするように誘(いざな)う。2人の日本人アーティスト、鷹野隆大と菅野恒平、日本に触発されたマーク・ヴァサーロの写真を通して今回、ピエールイブカーエギャラリーは、花とヌードをテーマにした現代の表現や、写真媒体の本質について問いかける。この3人の写真家を選ぶことで、ピエール=イヴ・カーエは、男性の身体や花と、日本の流儀や表現方法を熟考するテーマを探求し、それぞれの視点をまとめたいと考えている。

 

 日本滞在歴26年のイギリス人の写真家と日本人の2人の写真家を交えながら、ピエールイヴカーエギャラリーは、私たちが認識している花と身体の美しさについて問題を投げかける。エロティシズムすなわち狂乱は、この上ない形として表れ、儚さはそこに潜り込む。マーク・ヴァサーロは、1992年から日本で住居を構えている。モードの写真家として活動する一方で、ファッションショーと撮影の熱狂から定期的に逃れ、下田のアトリエで作品を制作している。 ロバート・メイプルソープのように、マークはミニマリストで入念な演出に長けている。 彼の写真は、大きなフォーマットでズームアップした花々の美しさ、儚さ、その威厳が現れる一瞬の時を捉える。マークは禅修行で培った忍耐で、花々を数百枚撮影し、最終的に一枚のカットを選択する。ウィリアム・シェークスピアがソネット15で「この世に育つあらゆる物について考えてみるとその盛りは一瞬である(Everything that grows holds in perfection but a little moment )」と書き記しているように、マークが捉えるのはこの完璧な瞬間であり、同時に彼はすぐに落花に対する心構えをする。

 

菅野恒平は、花々が枯れ、垂れ下がり、分解される時期を好む。彼の写真には、郷愁と一時的な静けさが染み込んでいる。撮影された被写体から生の不完全さや奇妙さ、顕著さを連想させ、鑑賞者の心を揺さぶる。フレーミングの欠如は、菅野の写真に身体の官能性を浮き立たせる自発的な広がりを与えた。本展では当時菅野が住んでいたニューヨークの身の回りの風景と、祖母が住むと福島県・川俣町の震災後の様子の2つのパートで構成されたシリーズ「Invisible Memories」から、4枚の作品を展示する。2つのイメージがランダムに2回プリントされた身体と植物の組み合わせは、鮮やかかつ神秘的で、驚くほど美的な構成だ。

 

鷹野隆大のヌード写真は、 身体と美しさ、ジェンダーとの関係について問題を投げかけ、鑑賞者の視線を釘付けにする。写真家の目的は、通常人々が見落としたり、見えないふりをしているところに、異なる視点を人々に提供することだろう。彼のシリーズ「カ・ラ・マ・ル」、「ヨコたわるラフ」、「やわらかいペニス(tender penis)」、「男の乗り方」では、第一印象の鮮度を伝えることを前提にしており、写真家と被写体が同じ様に表される。鷹野隆大は、性器の描写を展覧会で許可しない日本について、ポルノグラフィの概念が時間の経過と共に進化していくと考えている。彼にとって写真を撮ることは、被写体をありのまま受け入れ、彼らの生の美しさを見せることだ。