釘町彰 | Elpis | 2020年9月15日 - 12月5日

Air
岩絵具/雲肌和紙, 2020年

Elpis

ギリシアの詩人ヘシオドスによる、ギリシア神話の象徴的な作品「仕事と日々」の中で、パンドラは全ての災いが詰まっていた甕の蓋をとり、世界中に災いをまき散らした。ゼウスの意向でパンドラが蓋を閉めた時、エルピスだけが甕の底に残ったという。

甕に潜んだエルピスによって、生きている者は予言を行うことが可能となる。それにより惨事の際、彼らは困難を乗り越えるために決断を行うことができるのだ。しかしながら、予測を象徴し、一方で不確実性も含んだ予言は、抗うこともできず甕の中に留まるよう虐げられ、外へと逃れることができない。

そうした世界と運命の中で、人類は未来について知ることはできず、様々な形でやってくる不運に対し手さぐりで進み続けなければならない。この憶測に基づいた未来の予想は、将来の幸福を願う信仰を映し出している。幸福は自分たちのもとには訪れないが、かすかに予見したり願ったりする対象なのだ。それゆえエルピス(古代ギリシア文字:ἐλπίς / elpis)は、よりよい未来を願う「希望」と、来るべき災厄を予期する「絶望」という二つの意味を持つ。

私たちの共存する世界は希望というものをしばしば軽視し、私たちは時折、脆い存在を具現するものとして自身を捉えてしまう。しかし希望は、生きる者同士を結びつける精神性の中で具現されうるものであり、人々はそれにより共に困難を乗り越えることができるのだ。

釘町彰は、個展「Elpis」を通して、生きる者と思考の世界で見られるこの不安定な均衡の中で、人類の立ち位置を再認識しようとしている。人類は自身の取るに足らない性質に気付き、それを宇宙進化論の中で受け入れながら、かくして最も純粋な力、すなわち生きる力を感じるのである。

釘町 彰

釘町彰の絵画は、鑑賞者を人類なき世界について瞑想させる、新たな形の風景画だと言える。彼の多くの作品で表現されている自然は、人類の存在しない時代(それは過去でも未来でもある)の純粋で本質的な姿を現し、重きをなしている。

25歳の時、釘町は自身の制作活動に疑問を持つようになった。作品を生み出せず、多くの書籍を読み、中でも仏教思想との類似を感じたジル・ドゥルーズ(フランスの哲学者)の著作に興味を抱いた。ドゥルーズは絶対法則である単純な実体 「モナド」について特に考察を深めている。モナドは、有形・無形にかかわらず、全てのものの構成要素である。釘町の作品で表現されているものは生成も消滅もせず、その不変で本源的な性質からモナドを体現しているように見える。モナドで構成された世界は活動がなく、ライプニッツの表現を借りれば、外から入ることのできる扉も窓も存在しない。釘町は大地の姿や力の荘厳さを通して、知覚することのできない「何か」を作品で表現しているのである。また、宇宙や無私の心に満たされた世界へ向かうために、個性という概念を消し去り、私たちに世界の調和について観想させる。

神秘さは、釘町の作品でも同じようによく見て取れる。彼は、鑑賞者に想像の世界を自由に創り上げてもらうため、影の領域を自発的に作品の中で漂わせている。この謎めいた側面は一連の作品に見られ、日本を代表する現代アーティストの一人である彼に特異性を与えているのである。

ピエールイヴカエーギャラリーが2018年に行ったグループ展、そして2019年4月に参加したアートフェアArt Parisでの展示に続き、釘町は同ギャラリーでの初めての個展に「Air」「Snowscape」という2つの作品シリーズを選んだ。

Air

Air」は、釘町がフランス・イタリア間を移動していたことがきっかけで生まれたシリーズである。彼は全く人気のない雪景色の中を通っていた時、その超然とした展望に驚き、シャッターを切ろうと思わず立ち止まった。撮った写真は少しブレていたが、それがかえって不思議な側面を生み出している。モノグラフの出版の際に行われたインタビューで、彼はその時の情景を次のように述べている。それはどこか別の惑星に降り立ったような、SFのような風景で、雪と岩肌がむき出しになった、いわば生々しい自然の様相だと。「Air」は、その世界を絵画で表現しようとしたものである。シーンが暫時移動し「空気」が明るみに出る一瞬を絵画として捉えたという意味で、このシリーズはより映像的な作品と言える。一種の映像媒体のように、移動中の「空気」が主題となっているのだ。

Air
岩絵具/雲肌和紙, 2019年

Snowscape

「Snowscape」は、釘町が両親とヨーロッパ各国を旅行していた幼年時代がもととなって生まれたシリーズである。彼はその時以来20年ぶりにモンブランの頂上へと向かった。釘町はこの経験に大きな影響を受け、絵画という形で思い出を表したいと思うようになる。制作活動はすぐには始まらなかったが、その意志は常に心の奥底にあり、次第に強まっていった。シリーズの制作は何年にも渡って続くこととなる。「Snowscape」は、自然のみが統治し支配する、あらゆる生命と無縁な惑星を表しているようだ。それは人が全て死に絶えた超未来の光景を表している。「不在」は、このシリーズの主要な特性であり、平然とした静寂や調和という印象を与える。荘厳で無情な山は、地球を再生させながら、絶え間なく降る雪にそっと触れられている。

Snowscape
岩絵具/雲肌和紙, 2020年

もっぱら上質な自然のマチエールを使って制作を行いながら、釘町は、自身を超えた存在への献上物のように作品を捉えている。多くの作品(特に「Air」「Snowscape」シリーズ)において、彼はキャンバスを墨で覆うことから制作を始める。これにより、移動の際に写真に収めた景色の構成を忠実に再現できるのだ。彼は自身を、現実の正確な表現を使命とするレポーターのように見ていた。かくして彼は、空理空論の抽象化に走るよりもドキュメンタリーに近い作品を展示することとなる。

また、釘町は、天然の顔料と素材を用いながら、黒いキャンバスを極めて繊細に10層ほど重ね塗りし覆っていく。素材の一つであるラズライトは、山頂の空の深青色や、岩陰に映る冷ややかな雪の光景を思い起こさせ、熱を帯びると山頂の岩肌の灰色がかった色調になる。牡蠣などの貝殻から作られた白色顔料の一つである胡粉は、太陽に照らされた雪の繊細さや輝きを映し出している。おそらく胡粉は、釘町が最も多くの層で使用している顔料である。それは空気が循環しているような錯覚を与え、作品を傑出したものにする。

 

釘町 彰:

1968年横浜生まれ。多摩美術大学大学院修士課程絵画学科を修了後、パリ第8大学大学院に進学。1999年より自身の制作活動に専念し、日本・フランス・ベルギー・イギリス・アメリカなどの国で、数多くの個展・グループ展・現代アートフェアに参加。2012年から主に「Snowscape」シリーズを日本のギャラリーで展示。数多くの現代アートコレクターから制作の注文を受け、2018年にはデザイナー高田賢三氏の邸宅の屏風を制作。

現在はパリ・東京で暮らし、制作活動を行っている。