真島直子 | Jigokuraku | 2020年3月12日 – 6月27日

真島直子は1944年に生まれ、15歳の頃(1959年)伊勢湾台風の被害を目の当たりにする。日本で20世紀最大と言われるこの台風は、彼女のいた本州を中心に甚大な被害をもたらし、6000人もの死者を出した。それ以来「死」や「生き抜く」といった言葉が彼女の人生において重要な意味を持つようになる。

不条理に思えるこの世に対し、彼女は常に疑問を感じていた。アートは、彼女が身を置けそのような感性を表現できる唯一の場所となる。

真島は、当時在籍の女子学生が極めて少なかった東京藝術大学美術学部油画科を1968年に卒業する。彼女は大学での教育に強い不満を抱いていた。自身の世界観をアートで表現する方法を模索していた一方、授業で教わるのは技法ばかりだったからである。しかし、とある講演会で、その後約20年にわたり親密な間柄となる、画家の工藤哲己と出会う。

1970年代、アカデミズムとの決別、また油絵の画材を買う経済力の欠如もあり、真島は日常的にあるものを使用したアートに無限の可能性を見出す。例えば布・糸・ガーゼ-これらは、ベトナム戦争で戦死したアメリカ兵の遺体をくるむために使用されているのを、真島が報道で知った-や、段ボール・米・豆の苗-金網に対しボンドで固着されている-といったものである。真島のオブジェは「ヌーヴォー・レアリスム」「アルテ・ポーヴェラ」または「具体」といった同時代の一連の芸術運動と必ずしも調和するものではない。それらのオブジェを通して、真島は見る人を混乱させるような力を持った、たくましく魅惑的なアーティストとしても見られるようになった。

1987年、真島直子と工藤哲己は共に暮らし始め、東京藝術大学のアトリエで作品制作に励むこととなる。翌年1988年から、工藤が病に倒れた1990年まで、彼らは何度か展示を行った。真島が鉛筆画に精力的に取り組み始めたのもこの頃である。起業家でコレクターの増田通二の後押しもあり、真島は当時まだ絵画や彫刻の制作準備のための素描としてしか見られていなかった鉛筆画を、一種の表現方法と見るようになる。

新見隆教授による真島直子の作品に関する講演 2020年5月7日

鉛筆画シリーズ

鉛筆画は真島直子にとって新しいものではなかった。70年代・80年代に行っていたオブジェの制作では、接着作業に伴う乾燥工程で多くの時間を要し、その時間を主にデッサンに関する研究に充てていたからである。

1990年、工藤哲己が重病にかかり入院することになると、真島は彼の看病を献身的に行い、アトリエを去った。その後、真島は鉛筆で白紙に書き込みながら集中的に鉛筆画に取り組み始める。同年11月12日、工藤が亡くなると、真島は大型の作品制作に努めるようになった。小型の作品では表現の幅がどうしても狭まってしまうと考えていたためである。かくして「地ごく楽」シリーズの制作が始まった。「地ごく楽」とは、「地獄」と「極楽」を組み合わせた、真島による造語である。

地ごく楽、鉛筆・紙、114 x 239 cm、2004

「地ごく楽」シリーズで描かれている鉛筆画は、活力に満ち幾多もの変動を経た豊かな自然-恵みの森とも危険なジャングルともとれる-を思い起こさせる。また、それは海底の藻のうねりや椋鳥の群れの飛び立つ姿と見ることも出来る。真島は、これまで制作したオブジェのネガと捉えられる表現で、死との繋がりや生への執着に関する新たな問題提起の形をここに見出した。

真島の鉛筆画は常に心の内面を映し出しているが、それは自動書記にも概念の生成にも当てはまるものではない。真島は自分自身を突き詰めるため、精神についての探究を行った。音楽家が自身の深い感受性を表現するのに作曲や演奏が最善の方法であるのと同様、真島にとって、自身を見出すためにこの世の不条理を超える力を得られる-彼女にとってそれは「闘い」だった-のは紙との対面によってのみだった。

密林にて、鉛筆・紙、57.5 x 77 cm、2010

この探究は予備作業を帰納するものでは全くなく、真島は鉛筆を自身の身体の延長線上にあるものと捉えている。用いられる鉛筆はB6のただ一つ。鉛筆の硬さを変えてしまえば、それは方法論の芸術に立ち戻ってしまうことを意味する。一方で、真島は感受性、そして直接性のアートを保守している。真島の鉛筆画において、支配するものは何も無く、中心点や特別注意を惹く点も無い。以前より真島は、内面の探究を行う際、仏教思想の基本原理である水平・謙遜によって育まれた感情を感じるという。人間は全てのものの中心にいるのではなく、絶え間なく広がり物質的・時間的制限の無い宇宙とは対照的に、生命を得、生き、そして死んでいく一単体に過ぎない。そのような宇宙進化論的な世界を開くために、仏教思想は自我を解放するのだった。

地ごく楽、鉛筆・紙、113 x 74 cm、2001

真島は床で紙の上に跪きながら、作品を直接描く。上体を傾けながらの制作活動、隔たれた眼差しのみが、力強い運動効果を可能にする。90年代初頭、彼女のアトリエは小さかったため、一部が丸められた紙の上でしか制作を行うことは出来なかった。それゆえ、展覧会でのみ真島は鉛筆画の全容を見ることが出来た。数年後、真島は取り壊される直前のボーリング場で使用されていた寄せ木板を購入し、それを以前よりも大きくなったアトリエの床に敷くことにした。なめらかで頑丈なこの板によって、制作活動が大きく容易になる。

脳内麻薬、鉛筆・紙、114 x 68.5 cm、2015

大型の作品の制作には多大なる時間を要する。鉛筆画の場合では最低でも数カ月は掛かる。1990年から2005年までに、真島は35の大型鉛筆画を制作した。1年に2・3作品のペースである。最も大きいサイズの、長さ5.3メートルにもわたる作品は、愛知県美術館に収蔵された。他に注文された作品の中には、長さ4メートル高さ2メートルの大規模なものもある。

地ごく楽、鉛筆・紙、114.5 x 240 cm、2004

2001年、真島は第10回バングラデッシュ・アジア・ビエンナーレで出展した「地ごく楽」シリーズの大型作品でグランプリを受賞する。審査委員は、真島の作品が彼女の挑戦的な感情を具現化している点に加え、従来の鉛筆画の手法を超越している点を評価した。当時ビエンナーレの日本代表委員で、現在DIC川村記念美術館でチーフキュレーターとして活躍する光田由里は「地ごく楽」シリーズに日本の美意識を感じ取っている。独立して自由な、そしておそらく混沌とした線描は、自然を定義するものでもある、力強く複雑な構造を模している。日本の伝統的な美学が極まるのは、おそらく自然の表現においてであろう。

2005年、真島は東京の地下鉄の駅の階段で激しく転倒してしまい、3か月の間入院することになった。この事故により、跪いた姿勢での作品制作を再開出来なくなり、90年代を皮切りに行われた大型鉛筆画の制作は終わりを告げる。

地ごく楽、鉛筆・紙、116 x 279 cm、2005

ピエールイヴカエーギャラリーは、「地ごく楽」シリーズで現在流通可能な7つの大型作品のうち5作品を、日本の大型美術館に次いで展示する事ができ、誇りに思っています。

90年代のミクストメディア作品

1990年代に鉛筆画の制作に取り掛かった際、真島は様々な技法を用いながら作品の幅を広げる必要性を感じていた。

地ごく楽、ミクストメディア、99 x 173 cm、1992

1970年代、真島は日常にあるものを作品に用いることで名を上げていた。「死」や「生き抜く」ことを想起させる真島のオブジェによって、この若い造形芸術家は、人を混乱させる強い力を持った芸術家とカテゴライズされた。それから20年が経っても、アカデミックに見えすぎるものや油画に対し真島は懐疑を抱き続け、カンバスの範疇から脱出しようと努めている。それゆえ真島は、耐久性のある生地を素材として用いている。それらはしばしば不規則的に切られ、決してカンバスの枠上に置かれることはない。また、1つの素材に様々な技法が用いられることもある。例えば、ハードパステル、ソフトパステル、アクリル、親油性結合剤と混ぜ合わされた顔料、ボンドといったものである。

鉛筆画以外の作品でも、地ごく楽-「地獄」と「極楽」という2つの語による真島の造語-というタイトルが与えられているものがある。これは、真島が言葉によってよりも断然よく、絵画によって彼女がこの世に対し抱く思い、彼女そのものを表現することが出来るということを表している。

地ごく楽、ミクストメディア、100 x 144 cm、1997

真島のミクストメディア作品は、彼女の個性を形作る、尽きることのない力強さ・激しさを表現している。生地上の要素は、時空外の広大な想像の世界へと広がりながら、素材を超えて想像力を増大させ掻き立てる。喚起力のある真島の作品によって、人々は各々の視点を発展させ、固有の理想郷を創り上げる。

真島のミクストメディア作品は、同時期に制作された鉛筆画を補完するものである。ともに真島の回顧展を2018年に開いた名古屋市美術館・足利市立美術館は、これらの作品の数点を展示した。そのうち1点はピエールイヴカエーギャラリーで現在展示中である(上記写真の地ごく楽 (1997) を参照)。

脳内麻薬-最近の作品

真島は神経科学に興味を抱き、特に生者が亡くなる際の脳の動きに関する研究に惹きつけられた。人が亡くなる瞬間、脳がある快楽物質を放出することを、とある研究グループが証明している。真島はそれを、身体中に満足感・慰めといった感情を生み出す特性を持つ麻薬になぞらえた。このホルモンは、あらゆる動物、また昆虫にさえ共通のものであろう。真島はこの脳内麻薬を、人々が死に対して持つ恐れを和らげ得るものと捉えた。「脳内麻薬」シリーズを通して、真島は脳と精神にまつわる謎を解き明かそうと努めている。

脳内麻薬、ミクストメディア、194 x 260 cm、2019

上記写真にある大型の2つ折りの絵(194 x 260 cm)は、その存在感と細部にわたる洗練さによって印象付けられる。黄色に塗られた小さな泡は、活動と発展を続ける細胞組織を表している。それに対し骸骨は、過ぎ去っていく時に対する諦観、人々の生命の輪廻を体現しているようだ。それは死の受容も象徴している。なぜなら私たちがただ1つ確信を持って言えることは、どの生命も死から逃れられることは出来ないということだからだ。人類は自らの振る舞いにおいて必ず謙虚さを示さなければならない-そうでなければこの世は悲劇的になってしまう-ということを真島は私たちに示唆している。この作品で真島は、輪廻の思想-生者各々は、生命の鎖の一部を成す環として存在しており、それは一個別の要素に見えて実は構成的・普遍的な資質も持ち合わせている-についても探究している。

脳内麻薬、ミクストメディア、194 x 260 cm、2018

上記の2つ折りの絵に描かれている2つの単語-Bella Ciao・Kalashnikov-は私たちを集合意識の世界へ強く導くものである。前者は誓い・レジスタンス・自由を結び付け象徴し、後者は死・悲嘆を思い起こさせる。これら2語は対立しており、まるで最悪・最善双方の事態を先導的に引き起こし得る人類の能力を表現するかのようにカンバス上に示されている。真島はこの作品において、政治的な立場を明らかにはしているわけではない。表記された単語は真島の筆致によって、無意識的に生命を得ている。他にもこの絵は、あらゆる構成的な遊戯や、精神の乱れを隠喩した流動体を包含している。

脳内麻薬、油彩・スタッコ、40 x 30 cm、2017
脳内麻薬、油彩、53 x 45 cm、2017

小型の上記2作品において、真島は脳を作品の中心にくるように配置している。それはキマイラの姿を成し、崇高で、何者にも屈服しない自然の主であるかのようだ。何かを喚起させる力はこれらの絵において強く感じられる。まるで私たちの生活の中で論理の占める空間を、異なる視点で捉えようとさせているようだ。鑑賞者を自身の世界に立ち返らせ、また自身の感受性を表現させるという目的のために。

鯉の口

鯉の口、油彩・和紙、14 x 10 cm、1995

2018年、名古屋市美術館・足利市立美術館にて真島直子の回顧展が開かれた。真島が74歳の時である。デッサン・ミクストメディア・インスタレーション・オブジェと多岐にわたる作品が展示された。鯉の姿は支配的にその場所を占めていた。

幼年の頃より、真島は軟水で生きるこの魚に対し一種の幻惑を抱き続けていた。真島には常に、鯉が両義的な側面を持っているように見える。時には日本の伝統芸術で登場するように美しく、時には餌をもらおうと一斉に口を開いて恐れを抱かせる存在でもあるからだ。鯉には歯が無く、雑食である。不意に水中に落ちてしまった子猫を飲み込むこともある。中国由来のこの魚は、日本文化の中で存在感があり、そこでは愛・たくましさを象徴するものとして見られている。また、川を流れに逆らって登っていく姿が有名になったこともあり、力や根気強さを表現してもいる。中国の伝説によると、黄河を泳ぐ鯉が、川を登った後、竜の姿に変わって天へも飛び立っていったという。また、数世紀前、人里離れた日本の村では薬が欠乏していたため、病人は治療のために鯉の生き血を飲んでいた。

しかしながら、パートナーで入院中の工藤哲己を看病していた部屋で、真島が新巻き鮭を制作した際、そういった事はおそらく彼女の頭の中には無かっただろう。真島は何もやることのない長い時間をどうにかしようと、臓腑が除かれた鮭の姿をボンドで固めたタオルで表現した、彫刻作品の構想に励むこととなる。この衝動的な作品はどこで考えを深めて出来たものではなく、死や未知の物に接し真島が抱いた感情から生まれたものだった。真島は内面の状態を表すため、自身の感情をこの魚に吐露したのだった。

工藤哲己が亡くなった直後、真島は打ちひしがれ、彼の住んでいたアパートに隣接する神社を訪れた。その池で泳ぐ、何匹もの活力に満ちた鯉に、真島は呆然とする。それ以来、鯉の象徴的な力-愛・逞しさ・力強さ・根気という生命を象徴するもの-について再び考えを巡らし、そこから作品の主題を生み出そうと決めた。ギャラリーで展示中の小型作品「鯉口」では、強い性衝動を真島に想起させた円筒状の鯉の口が表現されている。この探究によって、口・頭・身体といった鯉のあらゆる身体的部位-それらは結合もしくはいくつかの要素に分けられる-を構成し直した、複雑的な造形作品が生み出された。

真島は彼女自身を鮭と対比させる。ひとたび動くのを止めてしまえば、鮭のように死んでしまうだろう。それゆえ彼女は決して制作活動を止めようとはしなかった。

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